町(永明地区)の歴史 目次へ
No.3 古代の永明地区
大化の改新(645年)によって政治の仕組みが、これまでの豪族の支配から天皇
の支配に変わったことはよく知られている。このあと701年に大宝律令(たいほうりつりょう)
が施行されて、新しい政治のしくみが整えられた。
地方の政治のしくみは、国−郡−里 となり、それぞれ国司、郡司、里長が支配
することになった。国司は今の県知事にあたるが、上野国の国司は元総社付近に
あった国府(現在の県庁にあたる)にいて、この地方を治めていた。
永明地区は当時も勢多郡に属していたが、この地方の支配者は大化の改新以前
からの上野国の豪族であった上毛野氏(かみつけぬうじ)の一族であり、その根拠地
はもとの荒砥地区であったろうという。
ところで、上毛野氏は赤城神社を信仰していたが、上大島町の近戸神社も赤城神社
であり、赤城神社の社領の一番西に位置していたといわれている(『前橋市史』第一巻)
平安時代の『延喜式(えんぎしき)』をみると東山道(とうさんどう)という官道(今の国道)
が信濃国から碓氷峠をこえて上野国にはいり、国府をへて下野国に通じていたことがわ
かる。
この東山道のなごりが 天川大島−上大島−上長磯−女屋−小島田 と通じてい
た東街道(あずまかいどう)ではないかといわれている。
しかし耕地整理などで今はほとんど姿をとどめていないようである。これも時代の流れで
あろう。
なお、野中町の村主(すぐろ)、小島田町の三角(みかど)は古代史に関係のある地名
と思われるが、今後の研究にまとう。
(『農協えいめい』1971.8.20 16号)
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