22 永明地区の近・現代(その13)

女屋町の自彊会についてのメモが見つかったので、前回に引き続いて同会成立の事情などについて記してみよう。

女屋町にはむかしから社日講があり、農家の者が社日の日に交代で当番を決めて、会食をしていた。一種のおごり講であったという。ごちそうは五目飯とかもちであったとか。ところが、明治27年にいわゆる日清戦争が始まると、同町に縄ない組合が結成された。この中心になったのは女屋官次、田代穂作の両氏であった。

組合員が縄をなってその代金を積み立てていくかたちをとったもので、これは当時他のムラにおいてもみられたものである。その当時、縄一房が5厘ぐらいで売れたという。その頃の1日の人足の賃金が35銭であったというから、縄の代金だけではなかなか貯金が出来なかったという。そのために組合では田植えとか農繁期の手間稼ぎなどの人足仕事をすることにして女屋全体の農家のものが、一戸一人ずつ参加した。なお、日清戦争のための拠出金としてもその金を利用したという。

この組合の集会日を昔からの慣例に従って社日の日とし、その集まりを農社と呼ぶようになった。この慣行は明治39年まで続いた。

その後、同村には明治41年ごろ共励会という組織が出来、2反7畝の試作地の耕作をその事業としていた。その後共励会と農社が合流。その中から青年だけで青年会の別働団体として自彊会を組織したものという。明治42年ごろのことであった。

                     (『農協えいめい』1973.06.01 35号)

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